自分にとって「死」とは、どういう意味ですか?

コラム
タイトル

先月、高校の同級生が亡くなったと連絡を頂いた。

お通夜の日に、東京にいなかったので、改めてお焼香をしに伺ってきた。

人はいつか死ぬんだ

去年、病院で会ったときのことを鮮明に覚えている。

退院見舞いに「会いに行こうか」って、今年の2月頃に話していて、3月になってあの震災があって、会いに行く日も延長することに。

7月下旬。1通のメールで、友人が亡くなったことを知る。38歳だった。

亡くなるまでの話を、友人の奥さんから伺う。テレビの横に飾ってあった友人の写真からは、想像がつかないほどのことがあったとのこと。

話を詳しく聞いていると、亡くなった後に、ご自宅で不思議なことがあったらしい。踊るように動く茶碗。音が鳴らないのに点滅する携帯電話。

この不思議な現象は、文字にしてみるとちょっと怖い気もするけど、自己主張をしたがる友人だったので、なんとなく分かるような気がした。

お線香を上げ終わって、遺影を見てみると、なんだかほっとしているような顔にも見えた。

友人よ、いろんな思いがあるだろうけど、ゆっくり休んで下さい。

あんじゅの思うトコロ

去年の9月にコンビニで「臓器提供意思表示カード」を見つけて、夫婦で持つことにした。そういえば「死」に関することは、3年ぐらい前から意識が変わっていった。

臓器移植に対してはいろいろな意見があると思うが、自分が死ぬときは、自分のカラダに「ありがとう」と感謝をして離れていくと決めている。そして、自分の身体を必要とする人がいれば、よろこんで提供する。

理由とかはなく、ただそうしたいだけ。

自分の身体をだれも必要としなければ、それはそれでよくて、骨になって、粉になって、海か空に舞うことになるでしょう。

杏珠
以上、ただただ、ゆっくり休んで欲しいと願う杏珠でした。それではまた!
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1972年生まれ。東京都八王子出身・中野区在住。デジタル機器やデジタルサービスを駆使して、いつでもどこでも人生を謳歌する「デジタル寅さん」として活動中。デジタルの楽しさを知ってもらうためのデジタルサポートを行っています。 その他にはグラフィックデザイナー、料理や食を通じてコミュニケーションを楽しむ研究をしている「食と心の研究家」としても活動。料理コミュニティ「キッチン男子部」の顧問も。
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